「ねえねえ知ってる?あの噂!」

 友達が瞳を輝かせながら身を乗り出しそう切り出した。あの噂?と首を傾げると友達は得意そうにゴホンとわざとらしく咳込んで「路地裏のまっくろくろすけの話!」と人差し指を突き出しながら言う。嗚呼またくだらないことを…と溜息をつけば、友達の頬はみるみるうちに膨れあがった。

「あーバカにした!名前はまっくろくろすけって可愛いけど、その妖怪はね……人を食べちゃうんだよ!」
「へぇ、メルヘンだね」

 棒読みに近い返答を返すと友達は「……つまんない」と口を尖んがらせた。そんな顔されても、と苦笑いを零しながら友達をなだめた。所詮噂は噂に過ぎない。そう言ってしまえば、きっと今より難しい顔をするんだろうなと口をつぐんだ。
 どうにも最近クラスで妖怪ネタがあちこちで飛び交っているように思う。きっとそれは清継くん率いる『清十字怪奇探偵団』という奇異な団体が引き金になっているのだ。友達もその影響を少なからず受けてしまっているみたいで、最近はずっとあんな調子だ。わたしはそんな色には染められまいと密かに誓いを立てながら、友達の話に渋々頷くのだった。





 そんな友達の噂話もすっかり忘れた頃、わたしは学級委員であるが故担任に雑用を押し付けられてしまった。断るわけにもいかず、一人で全ての雑務を終える頃には外はもう真っ暗だった。

「近道すればぎりぎり間に合うかも」

 電車の時刻表と睨めっこした後、わたしは学校をそそくさと出た。いつもは大通りから駅へと向かうのだけれど、なんせ今日は時間に余裕がない。比較的人気のない道だが、別段気にすることもなく最短のルートでわたしは目的地へと歩みを進めた。
 そして路地裏に足を踏み入れようとしたとき、ふと友達の言葉が頭を過ぎった。────── 路地裏のまっくろくろすけ。あのときはなんとも思わなかったけれど、いざ本物を目の当たりにすると凄む部分があった。それに街灯が一つもなく、とにかくどんよりとして暗い。少々躊躇いながらも、大丈夫だ!と自分に言い聞かせて、こんなところ早く抜けてしまおうと足を進めるスピードを上げた。


 ────── ひた、ひた、ひた、
 歩みを進めている途中、不意に届いた足音。木々のざわめきの中に、微かにこちらへと向かってくる音が途切れ途切れに聞こえる。背中にじわりと嫌な汗が滲んだ。急にあの噂話が現実味を帯びてきたように感じて、肩からずり落ちそうになるスクールバックをぎゅっと握った。────── 怖い!そんな感情がぐるぐるとわたしを包んだ。かたかたと震え出す足を鞭で打つように、わたしはがむしゃらに走り出した。

「はあっ、はあ!…い、や、こないで!」

 わたしが駆け出すと足音もそれに続くように走り出す。音の主が一体なんなのか、後ろを振り返って確かめたかった。けれどそれをしてしまうと、取り返しのつかない事態になってしまいそうな気がして。わたしはふらつく体をなんとか支えながら走った。
 だれか、だれか助けて!


 ────── ドン!
 わたしは前からやってきた『何か』に思い切りぶつかってしまい、拍子に腕を強く握られてしまった。わたしは捕まった!とひどく動揺をし、「離してぇ!やだ、だれかー!!」と声を張り上げた。すると頭上からこの場には似合わない冷静な言葉が降ってきた。

「落ち着け!私だ」

 抵抗することをやめて、ふと声の主を見上げてみる。するとそこには少し前にお世話になった『黒さん』という方が凛として立っていた。わたしは不意に全身の力が抜けて、黒さんに体を預ける形でもたれ掛かった。

「こわ、かった…」
「もう大丈夫だ。私がここにいる」

 極度の安心感からか眼に涙が浮かんでしまい、それが零れ落ちてしまう前に手で拭った。黒さんはぽんぽんと慰めるようにわたしの頭を撫でる。それに甘えて行き場のなかったわたしの腕を黒さんの体にまきつけた。普段のわたしなら絶対的にありえない行為だった。それほどこのときのわたしは動転してしまっていたのだ。
 それに応えるように背中に回された腕は逞しくて暖かかった。


 やっとのことで正常を取り戻したわたしは近すぎる黒さんの存在に、急に恥ずかしくなって頬を紅潮させた。ああ、わたし、なんてことを!

「く、黒さん、わたしもう大丈夫です…」
「…そうか」

 微妙な空気が二人の間に流れて、いたたまれなくなったわたしは咄嗟に抱きついてしまったことを謝ると黒さんは笑って許してくれた。────── そういえばこの前助けてくれたときも、こんな風に笑ってくれたっけ。今思い出しても胸には温かいものが込み上げてくる。
 さっきまでの気まずさがまるで嘘のようにさらさらと消えてなくり、わたしも黒さんに釣られて笑った。

「黒さん、助けてくれてありがとう」

 黒さんは何故か一瞬間固まった後、照れくさそうにもう一度微笑んだ。
 嗚呼もう電車には間に合いそうにないと頭の端っこで考えながら、胸いっぱいに広がるくすぐったいものの正体にわたしは首を傾げるのだった。
 それが恋だとも気付かずに。



ノクターンは優しく
執筆:20100307 公開:20100605