# 雨が降る


 あまり夏服も見かけなくなった季節の変わり目に、しとしととてっぺんから降り注ぐ滴に嫌気が差す今日だった。空はどんよりとして、暗い。雨はしきりに地面を濡らして、僕の足に飛びつく。傘を持つ右手が今にも痺れてきそうだと、感じた午後5時。賑やかな住宅街を少し離れた空き地で、見知らぬ少女が腰を下ろし一所懸命に地面を掘り進んでいた。いや、見知らぬというのは、少しばかり語弊があった。正しくは、顔見知りのできれば関わりたくない人物。それが、だった。

 だって、そうだろう。この雨の日に傘も差さずに一体何をしているのかと思えば、ただひたすらに地面ばかりを掘り進んでいる。もしそんな知り合いに出会ったとしたら、僕は真っ先に見て見ぬ振りをして、「赤の他人」を装うだろう。こんな物好きな奴と進んで関わりたいと思うほど、僕の頭はイカれていない。けれどこうやって彼女に一歩一歩、歩みを進めているのは、決して僕がおかしくなったからという理由ではない。むしろ僕はいつもより至極冷静で、彼女がああやって雨に打たれ泥まみれになりながら地面を掘り進めている理由も、彼女の瞳から大粒の涙が溢れている理由も全てわかっての行動だった。彼女の傘は、彼女のすぐ真横に開いたまま置いてあった。ピンク色の花柄の小さな折り畳み傘。それは彼女を覆うのではなく、もっと小さなものを雨から防いでいた。それは僕たちより遥かに弱い生き物だった。


「君、本当に馬鹿だったんだね」


 僕の声に反応して彼女は俯いていた顔をゆっくりと上げた。一瞬驚いた表情を見せた彼女は、すぐさま雨と涙でぐちゃぐちゃになっていた顔を濡れた右腕でごしごしと拭った。どうやら彼女にとって、僕がここに現れることは計算外だったらしい。それもそうだ。僕だって、こうして彼女の目の前に立っていること自体が計算違いなのだから。

 僕の傘は、真っ黒だった。おおきくて、僕の肩が濡れないように作られていた。けれど、その傘を雨に打たれた彼女に差し出そうとは思わなかった。僕は、そんなに優しい人間ではない。彼女がずぶ濡れになろうが風邪を引こうが、僕にはなんの関係もない。だからなんの関与もしない。けれど考えに反して、今こうやっているのは何故だろう。何故彼女の姿を見たとき、咄嗟に彼女の傍に近寄ろうとしたのだろうか。僕にはわからないけれど、端から理由なんてないのかもしれない。そう思ったら考えること自体が馬鹿馬鹿しくて、僕は思考を放棄した。


「どうして、ここにいるんですか」


 震えた声だった。いつもの覇気に満ちた生意気な彼女はどこにもいなかった。それはきっと彼女の傘の下に転がっている弱い生き物のせいなのだろう。僕と同じ真っ黒な、黒猫。その身体を真っ赤に染めて、心臓が動くのを停止していた。しんでいた。
 僕の返答がないと感じてか、彼女は止めていた手を再び動かしだした。彼女の手は白くて不気味だったけれど、今はその白い手を濁った溝のような色に染めていた。それを僕は綺麗だと思った。そうやって彼女が徐々に穢れていくのが。とても。


「何故君は君より弱い生き物に対して慈悲するんだい」


 素朴な疑問だった。それに対して彼女はわからないと答えた。今にも消えてしまいそうな声で、悲しいと呟いた。
 だったらそんなもの捨ててしまえばいい。見ていない振りをすればいい。誰が殺したかもわからない弱い黒猫一匹のために君がここまでする必要はない。悲しむことはない。泣くことはない。そうしたら、彼女は震えた声で「貴方は優しいですね」と言った。僕はその言葉に詰まった。僕が今まで君に対して優しくしてやったことは一度もなかった。しようとも思わなかった。世界に存在するあらゆる生き物に対してもその気持ちは変わらない。そんな反吐が出るような真似、しんでもしたくない。 彼女は馬鹿だ。


「弱いんです。わたしも弱いから、きっとこの子猫と慰めあっているだけで」


 だから、涙が止まらないんでしょうね。また彼女の頬に雨に混じれた涙が零れ落ちた。



#



「もう気が済んだの」
「はい、おかげさまで」


 全身泥だらけになった彼女は満足そうに微笑みながら、ピンク色の花柄の傘を差して僕を真正面から見た。どうせもう全身どろどろのびしょびしょなんだから、今頃傘なんて差したって意味ないんじゃないのと言ってみれば、彼女はいいじゃないですかこの傘が可愛いんですからと胸を張って言う。傘を持った汚れた右手を見ると本当にそんなことを思っているのだろうかと、一瞬疑いたくもなったが彼女がいつものように笑うのできっと本心なのだろうと思った。
 では、雲雀さん。また。と言いながら背中を向けた彼女は僕との距離をどんどんと広げていった。その後姿に何故だか目を逸らすことができなかった僕は、しばらくの間このままだった。彼女がいなくなった空き地はモノクロの箱物で、僕は足早にここから抜け出そうと思った。後ろを振り返って彼女が作った小さな墓を見ると、何故だか少し胸が重くなった。
 ─────僕があいつのように真っ赤な血を吐いてしんでしまったら彼女はああやって僕のために泣いてくれるだろうか。自分の手を穢してくれるだろうか。

 遠く彼方向こうの空がゴロゴロと唸った。ああ、もう少しで激しい豪雨が来る。その前に帰らなければ。そう感じて僕は踵を翻し、空き地を後にした。ぴしゃ、ぴしゃ、と相変わらず僕に向かって飛んでくる滴が気にくわない。─────きっと君も、僕と同じことを考えているに違いないと思った。 雨は、止まない。



Fin.