# 甘美な罠に溺れる


 とある理由でとあるアパートに住むわたしは、つい最近まで優雅にそこで「一人暮らし」を満喫していた。けれど今やとある理由で毎日をびくびくと過ごさなければならなくなった。そのとある理由とは────── ピンポーン、となんとも間抜けなチャイムを鳴らした張本人にあるのだけれど。そんなこと本人に面と向かって言える勇気も度胸も兼ねそろえていないわたしは、こうして半ば涙目になりながらも渋々その呼びかけに応答するのである。その方は、とても綺麗な顔立ちをしていて、学ランをこよなく愛し着こなす、まるで王子様のような人なのだけれど。心は鬼より冷たい、とても怖い人なのであります。


「ど、どちら様でしょう・・・」
「僕だよ」
「( ですよね!! )」


 そろりと扉を開けて確認してみるとやはりそこには、隣人の雲雀恭弥くんが仁王立ちして待ち構えていて、わたしは思わず悲鳴を上げそうになる口元をぎゅっと歯で食いしばり、雲雀くんの様子を伺う。彼はそんなわたしを気にも留めないで、「昼、まだなんでしょ」と言いながら、半開きのままだった扉を無理やりぐいっと引っ張った。うわあ!ドアノブをしっかり掴んで、こそこそと扉の後ろに隠れていたわたしはその反動で雲雀くんに顔面から突っ込んでしまった。背中に嫌な汗を感じながら、すぐさま離れると「ま、だです・・・」と一応雲雀くんの問いかけに答えてみるのだけど。彼はいじわるにも「ずっとあのままでもよかったんだけど」とからかう。その言葉に身体の芯からカアと熱が湧き上がってきて、思わず俯いた。


「ねえ、奇遇にも僕も昼はまだなんだ」


 奇遇にも、という言葉にひどく違和感を覚えた。それもそのはず、昨晩もう寝静まろうと布団の中に身体を預けたときに、彼がわたしの部屋を訪問して「明日は何も食べるな」と一言告げて去って行ったからである。奇遇なんていう言葉、全然似合わない。こんなの必然だ。
 雲雀くんは「ついてきなよ」と言うと、わたしに背を向けてスタスタと歩き出す。わたしは、「え、ちょっと、待って!」と急いで靴を履いて、鍵を掛けると雲雀くんの後を追った。彼は歩くのが至極早いのである。





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 案内されたのは見覚えのある並盛中学校だった。わたしは懐かしさに浸る暇もなく、スタスタ先を行く雲雀くんの背中を追っかけながら場違いである自分の身を小さくした。大学生であるわたしがこんなところを堂々と歩けるわけがないのだ。それも、年下の彼と。隣人である、雲雀くんと。
 雲雀くんが立ち止まったのは、応接室だった。今まで一度も振り返らなかった彼が「入りなよ」とわたしのほうを向きながら言う。それに、何度も頷くと雲雀くんは笑いながら応接室に入っていった。わたしもそろりと中を覗いて足を踏み入れる。応接室なんて、初めてだ。中学時代一度も入ったことのなかった応接室にこんな形で招かれるとは思いもよらなかった。
 ふと、長テーブルに目をやるとそこには大量の菓子パンが山のように積まれていた。まさか、と思い雲雀くんを見やると彼は笑った。好きなの食べていいよ。目がそう言っている気がした。


「あの、雲雀くん」
「なに」
「こんなにも食べられない」


 彼はわたしの言葉に憎たらしい笑みを浮かべて、「誰も君の為に用意したなんて言ってないよ」と口元を吊り上げて楽しそうに言う。一方勘違いしてしまったわたしは頬に熱が集まるのを感じて、また雲雀くんのいじわるで顔を俯けてしまった。ああ、すごく恥ずかしい・・・。自惚れていた自分にひどく後悔をして、戒めてやった。わたしの勘というものは、的中率がひどく低いのである。
 別に君が食べたいんなら、食べていいよ。どこからともなく雲雀くんの声が聞こえてきて、俯いた顔をゆっくり上げると雲雀くんは大きな机の上で頬杖を付きながらわたしの様子を眺めていた。朝からなにも食べ物を口にしていなかったわたしは、「じゃあ・・・」とテーブルいっぱいの菓子パンの中からあんぱんを取った。ソファに座っていいのかと躊躇していると、雲雀くんが良いタイミングで「そこに座ったら」と言葉を投げかけてくれた。
 あんぱんを口に含むと甘い餡子が広がって、わたしの口内を満たした。ああ、美味しい。


「そこで君に頼みがあるんだけど」


 二口目を口に含もうとしたとき、雲雀くんが唐突にそう言った。あんぱんを口から離して、「・・・何を」と恐る恐る聞いてみると雲雀くんは引き出しから大量の紙切れを取り出した。そのときわたしは悔しくも直感してしまった。ああ、この為にわたしはここまでやってきて、こうして雲雀くんに餌付けされているのだと。そしてその直感は悲しいくらいに的中するのだった。──────これ、手伝ってもらえない。雲雀くんの綺麗な声が応接室に響いた。わたしはそれに静かに頷くしかなかったのである(こんな生活もう嫌だ!!)。



Fin.