机の上に置かれた白紙同然の紙切れを一目して、溜め息が漏れそうになる口元をきゅっと結んだ。右手に握るシャープペンシルが中々先に進まないことが俺のイライラを増長させているのか、はたまた目の前に凛とした表情で数学のプリントに向かっているクラスメイトにドキドキと緊張しているのか、結局どらちも当てはまるのだろうけど、そのせいで握る右手がじわりと汗ばんできていた。クラスメイトと言ってもあまり会話を交わしたことのないさんと、こうして向かい合って黙々と作業をするのは到底俺には無理なことだった。それも二人きりの教室に、苦手な数学の補習課題付きとなると気は重くなる一方だ。
 重苦しい沈黙に役立たずの頭を回転させて、目の前に置かれた課題などには目もくれず、ああどうしようかと悩む俺は当然のことながら手が先に進まない。だからプリントは白紙も同然。なんて悪循環な場所にいるんだろうと何度思ったことかしれない。きっと俺は、さんが苦手なんだ。


 ─── カタ。
 そんな音に釣られて視線を巡らせてみると、薄茶色の机に置かれたシルバーのシャープペンシルが目に付いた。もしかして、と先走る俺より早く、声もあまり聞いたことがなかったさんが「終わった」と課題プリントである紙を俺に見せてきた。それに内心ほっとして「じゃあ担任に出しに行って───」きたらいいんじゃないかな、と言葉を続けるつもりだったのに、それに上乗せするように澄んだ声で「沢田が終わるまで待ってる」と言い出した。背筋にスーッと冷汗のようなものが流れていく気がした。

「え、いやいや!悪いよ、俺全然回答埋まってないし、帰り遅くなっちゃうし!」
「いいの、待ってる」
「いやでも ───」
「それに、早く帰る理由もない」
「…そ、そうなんだ(帰るのに一々理由入んのこの人ー!)」

 そう言われてしまえば下手に言い返す言葉も見つからなくて、自ら肯定してしまった。別に向こうがそれでいいと言うのなら、俺は別に待っていてくれても構わないんだけど。いや、でも…やっぱり、いつ終わるかもわからない状況で人を待たせるのは居たたまれない。白紙のプリントに回答が埋まるのはいつになるのやら、俺には全く予想できないんだから。それに、夕暮れが近い。

「あのさやっぱり先に出してきた方がいいと思うんだけど…」
「終わるまで待ってる」
「いや、何もそこまでしてくれなくても!」
「いいの、わたしが沢田と一緒に居たいだけだから」

 あまりにもいつもと変わらない調子で言うもんだから、ついサラッと流してしまいそうになった言葉に思わず「…え?」と聞き返してしまった。それに素直に「一緒に居たい」と答えてくれたさんに、今度は「ええっ!!!」と声を荒げてしまった。無理もない、彼女は平然として取り乱す様子もなく淡々と言うのだから。あまりに信じられない。だってあのさんなんだ。俺なんかに、そうだ、俺なんかにそんなこと…。結果言ったわけだけど、さんの真意がわからない。俺一人がさんのてのひらの上で踊っているだけかもしれない。そうだ、きっとその言葉には深い意味など決して有りはしないんだ。

「いや!はははっ、さんって結構茶目っ気があるんだね!ははは」
「別に本心を言ったまでだけど」
「え、あ、本心…。うん、本心…?」
「ああ、そっか。そうだね、沢田には言っていなかったかもしれない」

 いつになく饒舌な彼女から「何を」と聞く暇もなく、毅然とした態度で「わたし、沢田が好きなんだ」と言われたら、きっとあまりにも信じられない。けれど、いつも相変わらずのさんの表情が微妙に微笑んだように見えた俺は、既に彼女の手のひらで踊らされていたのだ。
 身体の芯からじんわり込み上げて来る熱に、赤くなる頬、耳。それを隠すことなど、それこそ恥ずかしくてできない俺はなんて格好の悪い奴なんだろうと思った。さんより取り乱して舞い上がって、すげー俺かっこわるいじゃん!
 さんを直視できなくて視線を泳がせた先に、ちらっとだけ見えたのは小さな耳だった。ほんのり赤くなった小さな耳だ。その持ち主が彼女だと知ると、俺は歯がゆいような照れ笑いをさんに向けた。そうすると彼女は釣られて、ふんわりと綺麗に笑うのだ。



言い忘れたアイラヴユー
執筆:20091123