古くさい本のにおいや陽だまりのにおいが、微かに鼻腔をくすぐる。放課後の図書室は人気がなく、ひっそりとしていて好きだった。元々利用者が少ない上、時間帯が時間帯のため、ここへ訪れたときはちらほらと人が見受けられたが、今は、見渡す限り俺たちしかいない。隣に座るを見ると、うーんと頭を抱えながらずらりと並ぶ数式に挑んでいる。期末考査一週間前、担任に「このままだと数学に赤点が付くぞ」と脅されたらしい。それで、俺に泣きながら、頭を下げてきたのだ。数学を教えてくれ、と。最初は面倒だと言って断ったが、あまりにも必死にせがんでくるもんだから、仕方なく首を縦に振った。それで、今に至る。

「そこ、間違ってんぞ」
「えっ、なんで!」
「そこプラスじゃなくて、マイナス。それといきなりここ、2から4に数字変わってんぞ。馬鹿なのか」
「んーー!もうやだー!」

 数字なんて見たくないんだよ!てか、二次関数なんて将来使わない!使えなくても生きてけるって! 机にベタリとくっついて、は項垂れる。そんなを横目に「できなかったらもう帰るからな」と吐き捨ててみれば、は凄い速さで起き上がって、シャーペンを持ち直した。ああ、単純なやつ。頬杖を付いて、教科書とにらめっこするを眺めた。
 そもそも授業をちゃんと聞いていれば、わかることを何故こいつはしないのだろう。の席に視線を送ると、いつも決まってはしっかりと瞼を閉じていた。そしてたまに口元を緩ませながら、何かを呟いて、隣の席の奴らにクスクスと笑われている。それにいつも馬鹿だと思いながらも、目を離せないでいた。理由なんて、考えたこともない。

 ねえ、獄寺。唐突に、の視線が此方へ注がれる。元から至近距離だったのが、が此方を向いたせいでもっと近くなった。顔と顔との距離が、近い。の吐息さえ、耳元に届いてしまいそうな距離。俺は慌てて、顔を背ける。不覚にも、ドキリとした。

「ここ、どうやって公式使えばいいの?」
「あ、ああ…、そこは、」

 急に心臓が不規則なリズムを刻み出して、手に汗が滲む。は相変わらず、唸りながらもうんうんと頷いて、俺の声に耳を傾けている。俺はこっそりとに視線を戻した。真剣な表情が目に映る。止まっていたの手が、徐々に息を吹き返して動き出した。ああ、なんとなくわかったかも!そう言いながら、勢いのままにシャーペンを滑らせる。
 どうだ、獄寺!解き終わったが満悦な笑みを浮かべながら、此方に視線を注ぐ。また、目が合った。やっぱり、距離が近い。それを振り払うかのように、あたふたとノートに目をやると、そこには丸っこい文字が羅列していて、最後には大きな文字で答えが記されていた。余程自信があったのだろう。俺は、笑いを零しながら「正解だ」と口にする。は、歓喜で飛び跳ねるんじゃないかと頭の隅っこで思っていたのだが、隣からは何も起こらない。気になって視線を送った。目が合う。は見つめて、俺を離さない。吸い込まれてしまいそうで、慌てて顔を逸らした。「獄寺の笑った顔って、すごくレアだね」がはにかみながら、ポロリと零した。わたし、獄寺が笑った顔、すごく好き。甘く重く、耳に響く。

「…じゃあもう笑わねぇ」

 頬が熱いのがわかった。頭の中での言葉がリピートされる。俺はとうとう可笑しくなってしまったみたいだ。
 そんなひねくれたこと言わないでよ、が服の裾を引っ張る。今まではどうってことなかった仕草が、こんなにも、こう、くるものなのか。可愛い、すげぇ可愛い。ぎこちなくへ視線を向ける。やっぱり、距離が近かった。あと少し近づいたら、くっついてしまいそうな距離。俺は何かに誘われるように、の顔に近寄った。そして、小さな唇に一瞬触れる。「ごくで、ら、」それじゃあ、足りなくて、また、触れた。



息が詰まるほど、
執筆:20101201